街角ドキュメント
大道芸人ほど素敵なショーバイはない!
パントマイムにジャグリング……。自己表現の天才たちの生き方に学べ!
街や公園をブラリと歩いていると、ふと彼らに出会う。ある時は青空の下で、ある時は雨上がりの路上で、彼らは自分たちの体を使い、自分たちの世界を表現していた。閉塞的な世界の中で組織的に管理された日常を送るボクらにとって、それはとても新鮮で憧れるほどの輝きを持っていた。
大道芸には自由な手応えがある
大道芸のメッカといえば、いまや新宿の歩行者天国。商売に支障があると反対する商店街や警察の締め出しにも負けずに大道芸を続けている。よく見かけるのは、南米の音楽を奏でるフォルクローレのバンド、暗黒舞踏、ジャグリング(曲芸)など。ペットのカラスを見世物にしているおじさんや風鈴売りもやってくる。
「もっと高く見たいですかァ」と大きな声を出しながらディアボロ(中国のコマ)を空中高く投げ上げているのは、「つぶつぶオレンジ」のふたり組みだ。赤い服を着ているのが「アカ」こと中嶋潤一郎さん(24歳)、緑の服が「ミドリ」こと本多宏充さん(24歳)である。
彼らは、東京大学出身の大道芸人だ。現在、中嶋さんは理学部数学科の大学院で研究を続けている。
「あらためて、大道芸人になろうと思ったことはないんです。数学の研究も大事だし。ただ、最近ではジャグリングの道具を売る仕事も始めました。目の前にある好きなことはちゃんと続けたい」
一方の本多さんは昨年春に経済学部を卒業して大手企業に就職した。本多さんは子供の頃から、人に対して何かやりたい、相手に喜んでもらいたい、という気持ちが強かったという。
「大道芸は、自分の店を持つような感じかな。お客さんの反応がわかるので、その分、やりがいもあります。会社の仕事は結果が大きい反面、何をやっているのか見えなくなる時があるんです」
世間でいわれるような「進路」が決まった後でも、ふたりにとって大道芸は欠かせない。自分のやりたいことを自然体で続けながら、週末の大道芸で気持ちのバランスを保っているようだ。
彼らのように大道芸以外の“職業”を持っている人もいるが、大道芸に専念している人たちも多い。
サンキュー手塚さん(29歳)は、パントマイムで独自の世界を切り開いた大道芸人だ。早稲田大学在学中にパントマイムのサークルで基本的な動きを学び、92年6月に友人とふたりで上野公園で試したのが最初だった。
「沖縄に行きたくて、パントマイムで旅費を稼ごうと思ったんです。そのうち、自分の力でお金を稼ぐのがおもしろくなって、沖縄行きも観光のつもりがパフォーマンスをやることに目的が変わりました。夜になって那覇の国際通りで演じたら、けっこう稼げましたよ」
「もともと目立ちたがり屋だった」と言う手塚さんは、しだいに大道芸にのめり込んでいく。当時の上野公園では、海外から来たパフォーマーや、国内でも名が知られる人たちが芸を競っていた。ここで、手塚さんは大きな転機となるネタを生み出すことになる。
「バイトで車の助手席に座っていたら、ラジオから『壁ぎわに寝返りうって……』という沢田研二の曲が流れてきたんです。なんとなく歌詞に身振りを合わせていたら、これはネタになるとピンときました」
さっそくジュリーの歌を数曲編集してストーリーを作ってみた。従来のパントマイムに見られる「壁」や「ロープ」とは違って、これが大いにウケた。以後、ホイットニー・ヒューストンに梅干しを食べさせてみたり、ラジオ体操にロボットの動きを取り入れたり、河村隆一の曲にノって障害をクリアしていく愛の物語まで創作する。
手塚さんが大学を卒業する頃の日本は、いわゆるバブル時期で、希望の会社に就職することもできた。しかし、目の前には自分の力でお客さんを集め、楽しませ、投げ銭をもらう自由な大道芸の世界が開けていた。
「サークルに入る前は公務員になろうと思ってたんですよ。でも、あの頃、周りにも大道芸をやっている人が増えて、不安はなかった。迷わずにこの道に進めたのは、ある意味で時代の波に乗れたからかもしれません」
“目に見えぬもの”に価値を見出す
大道芸を始めて6年目のケッチさん(28歳)は、高校3年の時にヘルマン・ヘッセの『クヌルプ』という小説を読み、社会の枠組みにとられわない主人公の生き方に魅力を感じたという。同じ頃、文化祭でパントマイムの真似事やお手玉を披露したのがウケて、人前で芸をするおもしろさに気づく。
大学進学で上京してから1年間は勉強に専念するものの、2年生の時から本格的にパントマイムを学び始める。英米文学を専攻していたこともあって、4年に進学する時にイギリスへ留学。ここで、本場のジャグリングに触れた。
93年春に帰国すると、上野公園や井の頭公園などで大道芸を始めた。大学卒業後もアルバイトをしながら大道芸を演じていたが、彼の場合は、このまま続けていけるのだろうかと悩んでいたという。それが吹っ切れたのは、95年夏に長野県東部町で行なわれた「アジアマイムフェスティバル」に参加した時だった。
「アジア各地からいろんな人がやってきて、見るだけでもすごく刺激を受けました。それに、みんなパントマイムだけで収入を得ているのにも驚きました。それまでは二足のわらじといった感じだったのが、急に目の前に道が開けたようでした」
ケッチさんは、人がやらないネタにこだわり、パントマイムと手品とジャグリングを組み合わせたユニークなショーを演出している。自分の芸を見た人が「僕にもできそう」と思えるように、専用の道具はなるべく使わず、身近にある物を活用して親近感を出しているのも特徴だ。
大道芸人は、芸を見て喜んだ人の気持ち(投げ銭)で生活の糧を得ている。芝居や映画などは、あらかじめ決められた金額を払って見に出かけるのが普通だが、見るつもりのなかった大道芸はそうではない。“定価”が決められてないので、いくら払えばいいのかわからない。大道芸を見る側が逆に個々の価値観を問われているともいえるのだ。
「パントマイムって、ないものをあるように見せるじゃないですか。例えば風船みたいに形のあるものならお金を払いやすいけど、日本人って、目に見えないものに対する価値ってなかなか判断できないんです。できれば僕はそこで勝負したいですね」
なら、好きなことをやればいい
こんな路上で自由に演じている以外に、イベントを中心に仕事をこなしている芸人も多い。彼らのきっかけとなったのが、89年から91年の間に開校していた「クラウンカレッジ・ジャパン」というクラウン(道化師)養成校の存在である。3年間で約70人の卒業生を出したものの、採算が合わずに廃校となった。
「クラウンカレッジにいた時はすごく楽しかったですね。クラウンとしての動きやジャグリングの技術、バルーンマジックなどいろんなことを教えられましたが、僕らが一番学んだのは、『FOR YOU(あなたのために)』という、人を楽しませる精神だったと思います」
こう語るのは、第2期(90年)の卒業生である川原彰さん(28歳)だ。子供の頃からテレビが大好きだった川原さんは高校卒業と同時に新潟から上京。「いつかテレビに」という思いで、ある小劇団に参加する。ちょうど劇団の活動が休みに入った時に、雑誌の記事でクラウンカレッジのことを知る。芝居の勉強のつもりだったのに、すぐにクラウンの楽しさにハマってしまった。
卒業後はイベントやテーマパークの仕事でクラウンを演じていたが、第3期(91年)の卒業生である奥田優子さん(31歳)と出会ったのをきっかけに、92年の暮れに横浜の山下公園で最初の大道芸を行なった。
「路上で自由にやってみると、クラウンになりきっていたはずの自分がけっこう我慢してたことに気づいたんです。クラウンはメイクしてお客さんを楽しませることが優先します。自分も楽しんでいるつもりでも、どこか無理していたのかもしれませんね」
ときおり、周囲の人から「好きなことを仕事にできていいね」と言われることがある。「なら、好きなことをやればいいのにって思うんですけど」。しかし、大道芸は雨ならできないし、夏の暑い日差しの時にはお客さんは立ち止まってくれない。イベントでギャラをもらえば生活は安定する。が、それでも川原さんは「ストリートのほうが精神的に楽」だと言う。
収入が不安定でも、将来どうなるかわからなくても、自分が決めた道を着実に歩いてきた自信が、好きなことを続ける原動力になっているのだろう。
大道芸を始めとする“ストリート・パフォーマンス”には、人を差別せず、管理せず、だれでも分かち合える芸能の原点がある。自分の気に入った場所で自由に演じ、たまたま出会った人たちと笑い合い、時には観客を輪の中央へ連れ出して演じる側に加わってもらうこともある。
もちろん、興味がない人や急いでいる人は立ち止まってくれない。それは相手しだいだし、投げ銭がもらえるかどうか、いくら入れてもらえるかも、お客さんの気持ちしだいなのだ。
しかし、そんな自分のやりたいことを見つけて突き進み、自らの価値を見出している若き大道芸人の姿から、「自分は何をしたいのか」「自分は何ができるのか」を、ボクたちはあらためて考えさせられるのではないだろうか。
※『週刊プレイボーイ』1998年8月11日(No.32)号より転載
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