芝居小屋から飛び出した人形師
第2回「週刊金曜日ルポルタージュ大賞」佳作
文・写真/新井由己
写真1
都内の公園で「酔いどれ」を演じる上條充。舞台となるシートの上に木漏れ日が落ち、刻々と変化する自然の明かりが照らされる。
 黒装束に身を包んだ男女二人が、木漏れ日の落ちる公園に現れた。慣れた手つきでシートを広げ、使い込んだスーツケースから糸が何本もついた人形を取り出す。公園を歩く人々は、何が始まるのか期待しながら、じっと様子をうかがっている。
 準備が終わると、カーステレオから流れる笛の音色に合わせて、獅子舞が始まった。太鼓や鉦の加わった軽快なお囃子の音が響きだすと、あっという間に50人前後の人が周囲を取り囲む。
 人形を操っているのは、上條充(42歳)、裏方役で音楽を流しているのは妻の福田久美子(54歳)である。獅子舞が始まって数分すると、曲の流れが変わり、妻の福田が蝶を持って獅子の前に立つ。上條の操る獅子が、蝶を追いかけて前後左右に飛び跳ねる。
 獅子は二体の人形で担がれていて、後ろの人がさぼっているのを注意する場面など、獅子舞をしている人の様子がうまく演出されている。最後には、中から人が出てきて、獅子の頭を肩に担いで獅子舞が終わる。獅子舞が終わるまで約7分。その間に、周囲の観客の数は100人を越えていた。
 次の演目は、寄席や座敷で演じられることが多い「かっぽれ」である。元は明治時代に流行した大道芸で、それを人形用の振りに直している。こっけいな動きがおもしろいのか、子どもたちが前のほうに飛び出してくる。
 5分ほどで踊りが終わると、坊主頭に鉢巻を巻いた人形が立ち止まった。上半身を前に倒しながら観客のほうをわずかに見ると、あごを引いて斜め45度まで静かにおじぎをする。それを見た観客が、ほおっと声を漏らす。
「ありがとうございます。江戸時代から続いている日本の糸あやつり人形でございます。次は、酔いどれをご覧ください」
 簡単な説明をしながら、上條はすぐに次の演目に進んでいく。
 「酔いどれ」は、祭り帰りの男が酔いつぶれてしまう様子で始まり、うとうとしているときに聞こえてきたお囃子の調子にうかれて踊りだすものだ。途中で面が落ちておかめの顔になる仕掛けが仕込んである。これは文楽や歌舞伎でも使われる「引き抜き」という技だ。酔っぱらいが急に女らしい仕草になり、踊り終わったところで袖を口元に持っていってちょっと恥ずかしそうに笑う。そして、膝をついて丁寧におじぎをするところまで、約8分。
 最後にもう一度獅子舞を行ない、舞い終わった後で観客のそばに行って頭をかんで回る。子どもには「元気で大きく育ちますように」と、大人には「健康でお過ごしください」と言いながら、一人ずつ丁寧にかんで回る。恐がっている子どもがいると、親に先にやらせて安心させている。正月などに獅子舞が門付けに来ると隠れてしまう子どもがいるが、子どもにとっては恐い存在なのかもしれない。
 ここまで約30分くらいだろうか。次に始める間隔に応じて、また獅子舞からやることもあるし、かっぽれから始めることもある。そのあたりは臨機応変にやっているようだ。
 この日、初めて糸あやつり人形を見た人が、何人か上條に声をかけていた。用事があって急いでいるが、今度ちゃんと見たいと言う人、いつごろからやっているのか尋ねる人、邦楽をやっているのか、お囃しの流派を尋ねる人など、人形に関心を持ってくれる人が多かった。

日本古来の糸あやつり人形

 日本の糸あやつり人形がいつどこで始まって、どのように伝わってきたのか、まだはっきりとわかっていない。
 西洋のあやつり人形などと違う点は、人形の体重の支え方である。よく知られているあやつり人形は頭の上に糸が付いていて、そこで体重を支えている。頭が固定されているので、首を動かすこともできない。
 その点、日本のあやつり人形は、肩に付いている糸で体重を支えるため、首を複雑に動かすことができる。顔を横に振ったり、頭を下げたり、あごを出したりして、細かい息遣いを表現することが可能だ。
 人形には、最低15本から25本までの糸が付けられる。体重を支える2本の肩糸と頭を上下に動かす1本の頭糸がキキ糸と呼ばれ、この3本が常にピンと張った状態になっている。このほか、顔を左右に動かす守り糸(2本)、あごを動かすチョイ糸(1本)、腰糸(1本)、手糸(2本)、ひじ糸(2本)、袖糸(2本)、ひざ糸(2本)があり、これらはキキ糸に対して遊ビ糸と呼ばれている。つま先を動かしたり、掌を返す動作をしたり、着物の動きを細かく見せたりするときは、さらに糸の数が増えていく。
 糸の先は「手板」と呼ばれる操作板に結ばれている。男形の板は厚さ1.2センチ、縦15センチ、横21センチで、女形の板は横が19センチとやや小さくなる。
 手板にはひょうたん型の穴が二つ開いていて、それぞれにタタラと呼ばれるシーソー状の角棒が付けられている。前側のタタラにはひざ糸が付けられ、後ろ側には守り糸が付けられている。
 人差し指と中指で後ろ側のタタラを下側から操作しながら親指で手板を保持して、薬指と小指で手板の後ろ中央に付いているチョイ糸を握るのが、手板の基本的な持ち方である。
 このような手板による操作は日本独自のものだし、掌が上を向くように持つのも珍しい。他の国では握り棒を上から握って操作する場合がほとんどである。
 西洋のあやつり人形と比べると違っているものの、中国や台湾には同じような糸あやつり人形が残されている。
 中国の糸あやつり人形は、主に福建省の泉州を中心に発達してきた。ここに伝わっている糸あやつり人形は、手で物をつかんだり、頭を自由自在に動かすことができる。刀を扱ったり、紙に字を書くこともできるようだ。
 また、泉州の対岸の台湾にも、同じような糸あやつり人形が残されている。台湾では、邪気を追い払うために演じられたようで、道士の資格を持たない者は人形を使ってはいけないと伝えられている。
 日本の伝統芸能として親しまれている文楽(人形浄瑠璃)は、平安末期から鎌倉後期にかけて渡来した唐人・傀儡子がもたらしたものという説がある。中国大陸から来た彼らは手使い式のものと糸あやつり式の技術を持ち、「えびすまわし」として西日本を中心に巡業するうちに、浄瑠璃と三味線と合体して文楽になったと考えられている。糸あやつり式があまり広まらなかった理由は定かではない。

学生運動から古典芸能へ

 北海道の旭川に生まれた上條は、高校にいる間から独立願望が強かった。「ともかく親元を離れたい」と思い、仙台にある東北大学に進学する。
 専攻は工学部の金属科。一浪している間に、自分が工学部に合うのか疑問に感じていたという。ただ、「大学に入ってしまえば、自分のやりたいことや適することが見つかるのではないか」と、自分を納得させながら受験勉強を続けていた。
 大学の試験が終わった後で東京に出ることがあり、既に東京の大学に進学している姉と会うことがあった。そのとき、文学座の演出部にいた姉の知人を紹介され、芝居の話をいろいろ聞くことになる。
 そして大学に入ったときに、新入生歓迎のチラシを受け取る中で、人形劇団のチラシが強く印象に残った。
「演劇の世界に入ると姉の知人の二番煎じになってしまうので、人形劇だったらいいかなと思ったんです」
 チラシを持ってそのまま劇団の部屋に行くと、「どうせなら何かやったら」と、新入生歓迎の芝居を手伝うことになってしまった。この人形劇団は指人形を中心としたもので、大学生以上の大人が見て楽しめる童話を中心に上演していた。
 上條が大学に入った1974年には、学生運動はやや下火になっていたものの、サークル活動に対する大学側の処分が厳しくなってきた時期であった。また、宮城県の女川原発の建設問題や狭山事件などに対する活動も活発に行なわれていた。だが、上條はどのセクトにも入らない。政治的な活動よりも文化的な運動を起こしたかったのだ。
 「マルクスやレーニンはまったくといっていいほど読まなかった」し、自分の中ではもっと別の方法があるのではないかと思っていた。上條は一度だけデモに参加したが、周囲の冷たい視線にもどかしさを感じたり、同い年ぐらいの機動隊員とぶつかったときに両者の違いはどこから来るのか悩んだことがある。
写真2
獅子舞に頭をかまれる子ども。都会に住んでいると、獅子舞が回ってくることもなくなってしまった。
 周りにいるセクトの人たちの主張や理論を聞いていても、その違和感は消えなかった。理論武装ばかりで、その中に「人間が見えてこない」のに上條は強い不満を抱いていた。
「理想的な世界を求めるのはいいんです。ただ、そこには生活と密着した文化があるはずなんです。セクトの人たちの言葉にはそれが感じられませんでした」
 そして、日本の文化とは何なのかとか、日本人の心とは何なのかということを、詳しく知りたくなっていく。大学受験の途中から古典がおもしろくなってきたこともあり、過去から残っているものを知ることによって、自分の疑問が解決するのではないかと思い始めていた。
 そんなときに、結城座という人形芝居を行なっている劇団のことを知る。結城座の歴史は古く、1635(寛永12)年に江戸で始まったと伝えられている。
 また、上條の在学中の1974年から78年にかけて、結城座は大きな転換期を迎える。1975年の四月に、今まで使っていた劇場から離れ、稽古場を使って『少女仮面』と『うつし絵・阿部定−関根弘の詩による−』の興行を行なった。「ムシロ小屋」の雰囲気を作りたかった11代目結城孫三郎と演出家の佐藤信は、自分たちの稽古場が絶好の空間だということに気づいたのである。
「いままで、他の場を借りて芝居をして来たが、そのときの人形は人形遣いに遣われるのを待つ受け身の物で、古典の人形も新しい人形も、皆どこかよそよそしかった。それが吉祥寺のこの場に立つとまるで生きかえったように不気味に闇に光って見えた」(『傀儡師一代』結城孫三郎・白水社)
 この公演がきっかけになって、結城座は「古典小劇場」を発足させる。義理でチケットを買ってもらう人よりも、ほんとうに見たいお客だけを相手にしたいと思ったのである。
 こうして、吉祥寺の住宅街の一角に、幟を掲げて、提灯と赤い毛氈で飾られた「芝居小屋」が現れた。そして上條は、この公演の新聞記事をきっかけにして、見る側と見せる側の息遣いを感じる結城座に入門することになるのである。

芝居小屋での13年間

 1979年2月に大学を中退した上條は、3月に結城座に入門し、調布市の仙川にアパートを借りる。トイレ共同の四畳半で、家賃は2万2000円だった。当時の結城座は、研修生から準座員を経て、座員に昇格することになっていた。研修生の給料が4万5000円だったので、家賃を払うと2万円ちょっとしか残らない。
 ただ、食べるのに困ることはなかった。昼は結城座で食べられたし、金がなくなると朝も食べさせてくれた。夜の公演があれば、夜も食べさせてもらえた。修行する者にとっては、ありがたいことである。また、小屋以外の旅公演もあり、旅の間は食事が付いている。
 九か月後に研修生から準座員になり、給料は5万5000円に上がった。食べることはなんとかなったものの、飲み代には苦労した。更に一年経った1981年に上條は座員になり、給料は6万5000円になる。
 運が悪いというか、上條が入門した前年4月、「カリガリ博士の異常な愛情−あるいはベルリン1936」の公演後に武蔵野保健所から電話があり、無許可興行という理由で興行中止を求められる。次に準備していた夏公演はなんとか許可が下りたが、それ以降は通常の興行ができなくなってしまった。
 結城座の所在地が第一種住宅専用地に当たり、都条例と興行場法に抵触すると通告される。結城座のスタジオは、戦後まもないころに移り住み、こつこつと改造しながら糸あやつり人形専用の劇場として使ってきた場所である。いってみれば、住居の一部が劇場になり、劇場が住宅地の中で浮いてしまったのである。
 仮興行の形で夏公演を終えた翌年、年間8日間の興行となった「傀儡幻夢しりーず忠臣蔵・四谷怪談」を行なう。条例では、月に4日間以内なら興行とみなさないと規定されているので、その範囲で芝居を続けるしかなかった。
 以後、仮興行の形で「少女仮面」を再々演したり、旅公演を続けたりしているうちに、1981年2月、武蔵野市が三鷹駅前の市有地を貸してくれることが決まった。
 そして、1984年2月9日に武蔵野芸能劇場(以下、芸能劇場)がオープンする。武蔵野市が土地を提供しているためか、細かい規定が定められていた。壁に貼り紙をしてはいけないのをはじめとして、何か工夫をしようとすると規則に触れてしまう。「とても味の出せる小屋じゃなかった」
 また、「ムシロ小屋」のようなスタジオから楽屋などが整った劇場に移ったことで、座員の緊張感がなくなってしまったと上條は語る。
「その前までは、結城座の小屋の二階の狭い所で、裸電球一つでメイクしたりしてたんですが、何年もやっているベテランがなんでこんなに緊張するんだろうというぐらいの緊張感がありました。それが、芸能劇場に移ったとたんになくなってしまったんです」
 演出家が言うように人形使いが芝居をして、自分で違ったものを引き出そうとか、悩みながらその役を作り上げていくこともなくなっていく。
 伝統芸能の世界では、「30、40は青二才。50から中堅、60からベテラン」と言われることがある。それが、30代後半とか40代ぐらいの人がみんなベテラン意識を持ってしまったのだ。
 ある日、11代結城孫三郎と酒を飲む機会があったときに、上條をはじめとする数名は、芸能劇場に移ってから疑問に感じていたことを訴えてみた。それがきっかけになって、自分たちの芝居をもう一度捉え直そうと、1989年にいったんスタジオに戻っていく。芸能劇場に移って5年後のことである。
 孫三郎は「昔の熱気を取り戻そう」と、本公演とは別に自主企画を立てるが、試行錯誤を重ねていくうちに、結城座内部でも少しずつ意見が分かれるようになった。
 そして、11代結城孫三郎と上條を含む8名は、1990年の12月に結城座から離れ、うち7名で「操り座おどらでく」を結成する。このため、現在は次男の両川船遊が12代目結城孫三郎を継いでいる。
 おどらでくを結成したものの、旗揚げ公演をするにも人形を作らなければいけないし、準備に時間とお金が必要だった。そんなときに、上條の提案でカレー屋を開くことになる。
「やっぱり人形を常に持っている状態じゃないと、せっかく体で覚えたものを忘れてしまうし、バラバラでバイトをしながらやるよりはいいと思ったんです」
 そして、カレー屋の開店準備と平行して、人形作りが始まった。資料を元にして図面を起こしたり、胴を作ってもらったりする。その一方で上條は、学校公演に向けて九州方面で営業を行なった。
 しかし、営業から戻ってみると、みんなの気持ちがバラバラになってしまっていた。結城座のいい面も悪い面も理解しつつ、発想を自由にしなければいけないのに、その自由さがなくなってしまったのである。
 そして上條は、「ちょっとみんなと離れる」と言って、おどらでくと師匠の元から去っていく。

人形に魅せられて

 フリーになったことを知った上條の友人が、多摩市にあるサンリオ・ピューロランドで舞台監督をやらないかと話を持ちかけてきた。結城座では人形も使うが、舞台の大道具をやったり、舞台にかかわるほとんどの仕事を覚えてきた。
 年収800万円と言われて、その数字がピンとこなかった。でも、人形をやり続けたかった上條は、けっきょくキリンビールの配達という仕事を選択する。
「舞台関係の仕事に入ると、それだけで食えるし、舞台の仕事をやってると納得してしまうと思ったんです。それで満足して、きっと人形はやらないだろうと、自分自身に対しても不安でした」
 ビールの配達は月に16日働けば20万円になった。結城座を辞める直前は14万5000円だったから、何か不思議な気持ちだった。とりあえず週4日働けば生活できることがわかったので、残りの日数を人形の制作に充てることになる。
 人形は、カシラ(頭)、胴、エンコ(手)、ゲソ(足)で構成されている。上條が最初に手がけたのは、人形の中心になる胴であった。おどらでくを辞めるときに人形を採寸した資料を持っていたものの、ほんとうに図面どおりに作っていいのか不安になる。
 結城座でもおどらでくでも、上條は大道具を担当することが多く、人形を作っている現場を見ていない。胴になる檜の木をノコギリで引いて、カンナをかけて小刀で削り込んでいく。合わない部分は紙をはってすきまのないように仕上げる。
「いちばん最初に作っているときはほんとうに手探りで、糸を通す穴を開けるのにキリ一つ刺すのも恐くて。でもなんとか通して手足もなんとか作って形になったときは、なんともいえないうれしさがありましたね」
 おどらでく時代に、師匠から三番叟(能楽の祝言曲・式三番で三番目に踊られる舞)と獅子舞は教わっていたので、この二つはやりたいと思っていた。最初に作った人形は三番叟の動きを入れようと思ったが、物語をどうするのかとか、どういう振りにするのかと悩んでしまう。
 ちょうどそのとき、府中でお囃子をやっている人たちと知り合い、お囃子で三番叟を踊らせてみた。ところが、何をやっているかわからないと不評だった。
 上條が一人になる直前に、妻の福田が高円寺で飲み屋を開いた。ZOZOという名前のその店は、飲みに来ている人たちに人形を見せるちょうどいい場所に変わる。
 そこで、試行錯誤していた三番叟を見せているうちに、「酔っぱらいにしてみるか」とひらめいた。そこにいた全員が飲んでいたこともあって話が盛り上がり、ドラマ仕立てにして、「酔いどれ」という演目に変化していく。上條にとって最初の人形作品である。

芸能の本質を求めて

写真3
出番を待つ「かっぽれ」の人形。人形のデザインと製作は、妻と相談しながら行なう。独特の雰囲気を持つ人形の表情は、見ている者を飽きさせない。
 おどらでくを離れて約1年後の1993年4月4日。府中市桜祭りで、上條は大道芸人としての第一歩を踏み出した。結城座に人形を見に来る人たちと違って、ここで会ったほとんどの人たちが糸あやつり人形を見たことがなかった。多くの人に喜んでもらえたことと、糸あやつり人形の存在を知ってもらったことが、上條にはうれしかった。
 大道芸の形式でやってみようと思ったのは、まず「日本の人形を知ってもらいたい」という願いがあったからだ。結城座のあの「芝居小屋」の雰囲気で、常に人に見せられるようにするには、自分から路上に出るしかない。
「芝居って大衆的でなければだめだと思うんです。つまり、生活の中にある芝居というか、茶の間から出てくるような芝居というか、生活の中にあって、だれでも気軽に見られるような芝居が必要なんだと思うんです。結城座でやっていたときに、近所の人が座布団抱えて見に来るんですね。そういう芝居を作りたくて」
 「芝居」という言葉を辞書で引くと、芝生に席を作って座るという意味がある。また、猿楽や田楽が行なわれるときに、桟敷席と舞台の間にある芝生に用意された庶民の見物席という意味もある。
 古くから伝わる民俗芸能は、常に地面と密接な関係を持っていた。「田楽」はその名のとおり、田植えのときに笛や太鼓を鳴らして田の神に豊作を祈った踊りで、生活者自身が舞っていたものである。これが後に「芸能」として親しまれるようになっていく。
 ここで重要なのは、おひねりやご祝儀の渡し方である。多くの場合、演じられた後でそれを渡すが、現在の芸能や芝居では、決められた金額を払ってから見ることになる。
「劇場で芝居をやってて、チケット代の決め方にいつも疑問を感じていたんです。チケット代を決める基準は何なのかとか、経費から割り出していく決め方が正しいのかとか、そういったものが、現実の芝居とぜんぜん合っていないんです。
 日常の中に存在する芝居に対して、自分自身が価値判断し、自分が見たものに対して、自分が決めたお金を払う。もしくは払わない。そういうことをやらなければだめなんじゃないかと思って、僕は路上に出たわけです」
 糸あやつり人形は、「つくづく大道芸に向かない」と言う。雨が降ったらできないのはどの芸でも同じだが、ちょっと風が吹くと人形が思うように動いてくれないし、湿度の変化も微妙に影響してくる。
 他の大道芸人を見ていると、よけいにそう感じてくる。日本のものだとガマの油売りや南京玉すだれ、西洋のものだとジャグリングやパントマイムなどが挙げられるが、そのどれもが、芸人と観客のやり取りによる演劇空間で成り立っている。
 しかし上條の場合、そのやりとりはほとんどない。人形の解説をすることもあるが、全体的には演目の紹介だけで次に進んでしまう。最後の獅子舞で観客の頭をかんで回るのもオマケ的な要素が強い。見せているのは、あくまでも人形なのである。
「結城座で人形を使っているとき、相手役の人形に驚かされる場面で、ほんとうに自分もドキッとしたことがあるんです。それも、僕が使うより前に人形が動いてしまって、人形が先にドキッとして、それが僕に伝わってきた感じでした。人形がつかんでいる空間や人形が見ている世界を初めて感じたときに、その感覚を自分の中でもっと確かなものにしたいと思いました。それからは、人形が感じている自然の流れや見えている世界を意識して演じるようにしています」
 「かっぽれ」のおじぎにため息が出てしまうのも、「酔いどれ」の様子に笑いがこみあげてくるのも、それぞれの人形の中に「人間性」が見えるからではないだろうか。観客にはほとんど見えないが、黒子姿で人形を使っている上條の表情は豊かに変化する。人形の動きに合わせるように自分の体も動き、それはまるで、人形が見ている世界を共有しているようである。

路上での試行錯誤

 府中の桜祭りには間に合わなかった獅子舞は、翌年春に完成した。「かっぽれ」も翌1995年に出来上がり、ようやく大道芸での演目が三つ揃うことになる。
 今までイベントやお祭りで演じていた上條は、この機会に決められた場所以外での大道芸を試みる。ホームレスと呼ばれる野宿労働者の問題が表面化してきた時期であったが、上條は新宿西口地下広場を選ぶことになる。
 8月16日。観客の輪ができ始めると、その中にホームレスの人たちの姿が何人か見えた。人形の真ん前に立たれてしまい、営業妨害だと思いながらも、上條は最後まで演じ続けた。そして、「どうもありがとうございました」と言った瞬間に、ホームレスの人がポケットを探り始める。しばらくごそごそやっていたが、やはりお金は出てこなかった。すると、その人は申し訳なさそうに後ずさりして、ゆっくりと遠ざかっていった。上條はそれを見たときに、「自分がやりたかった世界はこれなんだ」と思ったのである。自分の芸で、人の心を少しでもいやすことができれば、こんなにうれしいことはない。
 そして9月に入ってから新宿東口の歩行者天国に場所を移動する。夏ごろから翌年の春にかけて、新宿に集まる大道芸人の数はピークに達する。5月の連休中になると、300メートルほどの間で10組以上の大道芸人が技を競っていた。中にはロンドンやアメリカからやってきたパフォーマーもいて、歩行者天国はものすごい人込みになっていた。
 しかし、その混雑を嫌った地元の商店街と警察は、一気に大道芸人の排除に向かっていく。1996年5月の連休後半には警察官がパトロールを行ない、始めようとする大道芸人に注意をしている。日によっては、名前や住所などの連絡先を調べられたこともあった。
 海外から来ていたパフォーマーは別の国に移動して、上條をはじめとする芸人は吉祥寺の井の頭公園に場所を移す。ところが、この公園も翌週にはロープが張られて、完全に締め出されてしまった。
 ゲリラ的にやるのを好まない上條は、管轄署に許可をもらいに行くが、当然のように許可は下りない。なぜできないのかと尋ねても、その理由は教えてくれなかった。
「やっぱり日本の体質をもろに示していますね。一般の市民はそういう場所に警察が入り込んで管理している状態って、なかなかわからないと思います。僕らがそういうのをやって初めてわかることですから」
 この件に関して、新宿大通り商店街振興組合は、「歩行者天国はもともと歩行者のためにあり、人寄せ行為は迷惑」と言っている。何軒かの小売り店に話を聞くと、大道芸に関心がいってしまうと、店頭の広告に気づかないために売り上げが落ちることが多いと言う。
 歩行者天国が導入されたのは1970年8月2日、美濃部都政の時代である。銀座・新宿・池袋・浅草の四地区の計122本の道路(13.9キロ)で実施された。
 元々、歩行者天国は、車社会に対する歩行者の権利を取り戻す試みの一つであった。開放されたこの日は、道の真ん中であぐらをかいてビールを飲む若者や、バレーボールを楽しむ人たち、車座で弁当を食べるグループなど、開放された道路を広場のように使っていた人も多かった。
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新宿東口の新宿通りの歩行者天国には、警察署長と商店街の連名の「お知らせ」看板が立っている。大道芸が演じられていたころに比べると、人影もまばらだ。
 ただ、警視庁主導の実施であることから、集会やデモはすぐに排除されている。銀座でベーゴマをやっていた若者3人も15分後に追い出されてしまった(『毎日新聞』1970年8月3日付)。
 この前年に新宿西口地下に集まったフォークゲリラの群集を追い出すため、「広場」から「通路」と名称を変えた前例があるだけに、道路を“広場”として利用することはできないようだ。名称を決めるときに「歩行者広場」という案もあったが、これは採用されなかった。
 原宿の歩行者天国(通称ホコ天)が廃止されたのも、新宿で大道芸人が排除された年と同じである。ホコ天では政治的なテーマを扱うバンドもあり、警察との小さなトラブルが散発していたという。新宿で取り締まりをしていた警察官は、「歩行者天国は大道芸をする場所ではありません」と言っていたが、では大道芸人はどこで芸を見せればいいのだろうか。
 新宿を追い出された上條は、都内のある公園で定期的に大道芸を行なっている。この公園では行き場を失った芸人が何人か演じているが、基本的には禁止の場所である。よほど迷惑にならないかぎり、大目に見てもらっている状態だ。
 なお、1997年6月25日現在、新宿高島屋前の広場を大道芸人に開放する計画が進んでいる。ただし、今のところ大道芸人の意見には耳を傾けられていない。新宿の歩行者天国から締め出された芸人を集めて、高島屋が利用しようと考えているのかもしれない。いずれにしても、しばらく動向から目を離せない。

日本人の心を探して

 週末の公園で大道芸を行ないながら、上條は新しい道を模索している。何度か老人ホームで演じた体験から、都内にある老人ホームを回る計画を立てている。
「お年寄りがいい顔をしてくださるのがすごくうれしくて、ともかく回りたいとずっと言っていたんです。それと、お年寄りが、独居老人が、正月に一人で過ごすのは耐えられないって、カミさんが言うんです。どんなに日本のことを批判しても、今僕らが食って行ける状態を作ってくれた人たちなんだし、そういう人たちに感謝する気持ちは絶対必要なんじゃないかって。
 老人ホームに行くと、痴呆性の方々がずいぶんいらっしゃって、人形使っているときにほんとうに無表情で、自分で何をやってるんだろうって思うこともあるんです。でもともかく一生懸命見てくださいってやって、最後に獅子です、獅子舞です、縁起ものですので、みなさまの長寿を願って一人ひとりの頭をかんで回りたいと思いますって頭かんであげると、お年寄りの顔がふっと和むんですね。そういった出会いのある場所があれば、僕はほんとうに喜んで行きたいし、またそれを作っていかなければだめなんじゃないかと思っているところです」
 現在、上條にとって初めての女形になる「黒髪」を製作中である。今年5月に行なわれた東京大学の五月祭でお披露目をした狂言「かみなり」の次の作品になる。今は仕上げの段階で、振りを考えながら、どの位置に穴を開けて糸を通すか悩んでいるところだ。これを夏の間に完成させて、ぜひ老人ホームに持っていきたいと思っている。
「目標は、毎年一作品ずつ増やしていくことです。なかなか思うように進まないんですが、その次は近松の作品で義太夫に挑戦したいですね。できれば、地面の上でできて小屋でもできる作品をどんどん作って、もっと見せていきたい。それも和モノにこだわって、もっと日本人というものを追求しようと思っています」
 芝居小屋を飛び出した人形師は、これから何人の「日本人」と出会うのだろうか。(文中敬称略)

参考文献
『傀儡師一代』結城孫三郎/白水社/1981年
『アジア人形博物館』宮尾慈良/大和書房/1993年
『日本民俗文化体系第七巻 演者と観客=生活の中の遊び=』小学館/1989年
『日本の古典芸能第七巻 浄瑠璃』平凡社/1985年
『日本人形劇発達史・考』川尻泰司/晩成書房/1986年
『朝日百科日本の歴史第十二巻 現代』朝日新聞社/1989年


『週刊金曜日』1997年10月24日(No.192)号より転載
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